2024年11月28日(木)
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聖書一日一章 イザヤ書 2章
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エルサレムから主のことばが出るからだ。(3節)
2節から4節は、イザヤが見た、遠い未来のエルサレムの幻、5節以下は、北のイスラエル王国の、外国の宗教であふれる現状と神のさばきの予告です。
さて、2節では、「終りの日」、イザヤ書では遠い未来の意味ですが、「主の家の山」、エルサレムの町が立つ丘のことですが、「山々の頂に堅く立ち、そこにすべての国々が流れて来る」、つまり、その名声が高くなり、諸国の民が押しかけて来ると言います。エルサレムは当時はあまり知られていなかったので、諸国の民が押しかけて来るとは考えられませんでした。しかし、7百年後、キリストがエルサレムで教え、死に、復活され、その教えが世界中に伝えられたので、現在、世界中の人々が新しいエルサレムである教会に集っています。神は全能なので、予告されたことは必ず実現します。
日本人はもともとキリスト教に非受容的ででしたが、最近はますます固く心を閉ざしています。そのため、キリスト教の背景のない人が救いを求めて教会にやって来るということがほとんどありません。伝道をしても、自分とは関係のない宗教として無視されることが多いです。そんな精神的風土では、人々が教会に押しかけて来るということはあまり考えられませんし、期待もできません。しかし、全能の神なら、不可能ではありません。み心ならば、どこの教会も人が来すぎて、入れなくて困るという状態にもなります。
ところで、3節は、諸国の民が押しかけて来るのは、「エルサレムから主のことばが出るからだ」と言います。人々が押しかけて来るのは、神の言葉が伝えられて、人々が神の言葉を聞いたからだというのです。律法学者たちが聖書を教えていたときには、外国人はおろか、ユダヤ人でさえ、義務的にしか聞いていませんでした。しかし、キリストが同じ聖書を説き明かされたとき、人々は「これは何だ。権威ある新しい教えだ」と言って目を輝かして聞きました。私たちは教会で神の言葉を説き明かしています。しかし、その務めの一人として、力ある言葉として説き明かせているかと問われたら、そうではないと告白しなければなりません。聖霊の注ぎのための祈りが必要です。
テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944 鷹取 裕成