2024年12月1日(日)
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聖書一日一章 イザヤ書 5章
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わざわいだ。(8節)
「終わりの日」、ここでは遠い未来のことですが、その日に神が行われるさばきについての預言の続きです。神は、ある人が、肥えた土地を掘り起こし、石を取り除き、良いぶどうを植え、酒ぶねを造り、甘いぶどうのなるのを待っていたところ、酸いぶどうができてしまったという話をされます。人は神ご自身、ぶどう畑はイスラエルの人々のたとえです。神は、「なすべきことで、わたしがしなかったことがあるのか。なぜ、酸いぶどうができたのか」と、ぶどう畑である人々に対して、すべての良いことをしたのに、悪い実を結んだことを責められます。そして、荒れすたれるままにしておくと宣告されます。
イザヤはそれを受けて、その悪い実を具体的に挙げていきます。金持ちが悪い方法で家や畑を買い集めていること、貴族たちが朝から酒宴を開いて酔っぱらっていること、悪を善、善を悪と言うようなうそが横行していること、自分を知恵ある者とみなし、高ぶっていることです。
さて、イザヤはそういう人々の行っている悪を挙げる上で、「わざわいだ」と何度も言っています。数えると、6回も言っています。この「わざわいだ」はどんな意味でしょうか。普通に考えれば、そんな悪いことをしていれば、災いが来るという意味でしょう。しかし、私は、そういう悪いこと自体を「わざわいだ」と言っていると思いました。私たちは、神を知ると、悪いことをしたとき、神が何か罰を与えられるのではないか、何か悪いことが起こるのではないかと心配します。それは、神を知らないときに比べると大きな進歩です。しかし、悪いこと自体の本質をまだよくわかっていないところがあると思います。キリストを信じて、すべての罪を赦され、すべての罰から解放されましたが、そのことの確信が強まれば強まるほど、罰に対する心配がなくなるのですが、それなのに罪を嫌うようになっていくように思います。キリストによって与えられた聖霊によって、罪の醜さがわかり、それ自体がたまらなく嫌いになったのだと思います。早くこの罪のからだとこの世から解放されたいです。
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