2024年12月18日(水)

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聖書一日一章    イザヤ書 22章

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そこであなたは死ぬ。(18節)

「幻の谷についての宣告」とありますが、谷に囲まれた町エルサレムのことです。外国の大軍によって踏みにじられること、王や重鎮がこぞって逃げること、襲来に備えて、二重の城壁の間に貯水池を造ったが役に立たないことを予告しています。百数十年後にこの通りのことが起こっています。

15節以下は、イザヤの時代のことで、イザヤが神の指示で、シェフナという宮廷の執事に、自分のことしか考えていないから、死ななければならないと宣告し、その任務にエルヤキムという人を任命したことです。

さて、12節には、神がエルサレムの滅びを予告した上で、悔い改めを呼びかけられると、人々は浮かれ楽しみ、「飲めよ。食べよ。どうせ明日は死ぬのだ」と言うとあります。死ぬかもしれないときに、「大変だ、死ぬのはいやだ、何とかしなくては」という反応と、正反対の、「どうせ死ぬのだから、思いっきり楽しもう」という反応があることに気づきます。理解に苦しむのは、後者です。死を恐れているはずなのに、楽天的になるのです。私たちの周りにも、こんな心境の人がおられるのではないでしょうか。そういう人にとっては、そう思う以外、他に道はないので、むしろ同情を感じます。

しかし、もっと良い道があります。人間の存在の本質は、神が人間に吹き込まれたたましいであり、神はそのたましいのために次に行く世界を備えておられるので、死は肉体だけのことに過ぎません。私たちは肉体の死より、たましいの永遠の幸せを考えなければなりません。神はそのためにキリストを遣わされ、キリストはそのためにすべてを備えられたので、キリストを信じてついていくだけで、たましいの永遠の幸せを得ることができます。

同時に、人間的に死を免れない状況でも、全能の神はどんなことでもできるので、神を信じて、あきらめず、祈りつつ最善の努力をすべきです。もっとも、祈れば、だれでも死を免れるわけではなく、神によって死ぬべく定められた時もあるので、肉体の死にこだわらず、新しい世界を待ち望みましょう。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成