2025年1月13日(月)

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聖書一日一章    イザヤ書 48章

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わたしの栄光を、ほかの者に与えはしない。(11節)

神は40章から、未来の、バビロン捕囚からの解放のことを語ってこられましたが、ここでは、語る理由として、それが起こるときに、彼らがご自身のわざと信じるためだと言われます。さらに、怒ってバビロンの手に渡したが、今、バビロンを倒し、彼らを解放すると言われます。15節の「わたしが彼を呼んだ」の「彼」は、バビロンを征服するペルシャのキュロス王のことで、20節で、彼が征服するとき、「バビロンから出よ。喜びの声をあげて」と言われます。

さて、10節では、「わたしは苦しみの炉であなたを試した」と言われます。神が人々をバビロンに渡されたのは、銀を精錬のために火の炉に入れるように、信仰の純化のために苦しみの炉に入れられたのです。そして、その動機として、11節で、「どうしてわたしの名が汚されてよかろうか」と言われます。人々は、ご自身の作品なので、彼らの成功はご自身の名を高め、彼らの悲惨な状態はご自身の名を汚すのですが、彼らが不信仰だと、ご自身が彼らを助けることができず、彼らは戦いに敗れ、悲惨な状態になり、ご自身の名を汚すことになります。そこで、彼らが勝てるように、そのために彼らを助けることができるように、そのために彼らの信仰を純化されるのです。つまり、ご自身の名が汚されないように、信仰を純化されるのです。

それはちょうど王と貨幣との関係に似ています。当時、貨幣は王が発行し、貨幣には王の名と肖像が刻まれていました。国が栄えているときには、貨幣に純金や純銀を使うので、貨幣が輝いていましたが、国が衰えると、金や銀が不足し、貨幣に安い金属を混ぜるので、貨幣がくすみます。ですから、輝いている貨幣は王の名を高め、くすんでいる貨幣は王の名を汚しました。私たちは王であるキリストの貨幣です。私たちにはキリストの名が刻まれています。私たちが輝いているならば、私たちに刻まれているキリストの名を高めることになります。そのためには、私たちに神の力が働くことが必要ですが、そのためには、信仰の純化が必要です。そのためには、時には、苦しみの炉で試されることも必要かもしれません。

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