2025年1月18日(土)
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聖書一日一章 イザヤ書 53章
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彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。(11節)
よく知られているキリストの身代わりの死の預言です。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちのすべての者の咎を彼に負わせた。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができる。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。」
さて、11節では神が、「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する」と言われます。彼、つまり未来のキリストが、自分の激しい苦しみのあとを見て満足する、つまり、十分に苦しんだ、これでよいと思うというのです。しかし、これは奇妙なことです。楽しいことなら、十分に楽しんで満足するということがありますが、苦しいことなら、できるだけ早く終わってほしいと思うものです。それなのに、十分に苦しまなければだめだ、十分に苦しもうと思うというのは、正義がすたれないために、自ら必要と感じ、自ら望んで受けられた苦しみだからでしょう。数え切れない罪深い人を救うために、彼らの罪が不法に赦されることがないように、ご自分が十分に苦しむことを望まれたのです。
また、その満足は、十分に愛したという喜びに満ちた満足でしょう。人間同士の愛でも、愛が深まれば、愛する人のために犠牲を払うようになります。しかも、がんばって犠牲を払うのではなく、負担感なく自然にそうします。まして、キリストなら、愛する人々のために犠牲を払うことを喜びと感じられるでしょう。それなら、愛する人々のために十分に苦しむこと、それは 十分に愛することでもありますが、そのことで喜びと満足を感じられるのではないでしょうか。十字架はけっして悲惨な苦しみではないと思います。
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