2025年1月22日(水)
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聖書一日一章 イザヤ書 57章
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義人は、わざわいを前にして取り去られる。(1節)
ここでは神が人々が隠れてしている占いや偶像礼拝や不正な取引を指摘されます。そして、15節で、「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである」と言われます。ご自身への反抗心を捨て、み前にへりくだるならば、ともに住み、いのちを与えると言われるのです。
さて、1節では、神が「義人は滅びるが、心に留める者はいない」と言われます。形だけの信仰がはびこっている時代には、「義人」つまり神を本当に信じ従う人は、迫害を受け、殺されるが、人々は冷たくも、心に留めないと言われるのです。同時に神は、「義人は、わざわいを前にして取り去られる」と言われます。迫害で死ぬことは不幸なことですが、長い目で見ると、けっしてそうではありません。神はその時代の人々にひどい災いを予告しておられるので、迫害で死ぬことは、そのひどい災いを免れることになるのです。
ひどい災いを前にして取り去られるということでは、クリスチャンも同じです。世の終わりの前に激しい苦難が予告されていますが、その時期のことで、キリストはマタイの福音書24章40節と41節で言われます。「そのとき、男が二人畑にいると、一人は取られ、一人は残されます。女が二人臼を引いていると、一人は取られ、一人は残されます。」激しい苦難の前に、神を愛する人が神のみもとに取り上げられるということでしょう。とても憐れみ深いお取り扱いです。キリストは別の憐れみ深いお取り扱いも予告しておられます。マタイの福音書24章21節と22節で言われます。「そのときには世の始まりから今に至るまでなかったような、また今後も決してないような、大きな苦難があるからです。もしその日数が少なくされないなら、一人も救われないでしょう。しかし、選ばれた者たちのために、その日数は少なくされます。」いくら神を愛する人でも、苦難が長くなると、耐えられず、信仰を捨ててしまうかもしれません。そういう私たちを憐れみ、耐えられるように苦難を短くされるのです。神のそのような憐れみは、世の終わりのクリスチャンだけでなく、苦難にあっている現在のクリスチャンにもあるはずです。
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