2025年1月23日(木)

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聖書一日一章    イザヤ書 58章

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わたしの好む断食とはこれではないか。(6節)

神は、人々が決められた日に断食をしていて、一見信仰的に見えるのに、労働者を追い立て、虐げていることと、安息日に自分の好むことをするために出歩いていることを責められます。そして、「飢えた者に心を配り、苦しむ者の願いを満たすなら、あなたの光は闇の中に輝き上る」と言われます。

さて、6節では、「わたしの好む断食とはこれではないか。悪の束縛を解き、虐げられた者たちを自由の身とし、すべてのくびきを砕くことではないか」と言われます。神が強制労働者の束縛を解き、彼らを自由の身にすることを望んでおられることは言うまでもありません。しかし、「わたしの好む断食」、正しい断食はそれだと言われると、断食と強制労働者の解放と、どう関係するのかと思います。

そこで、旧約聖書の断食の目的を考えてみました。断食は食べないでどれだけ我慢するかという修行ではありません。「断食と祈り」と、よくセットで言われるように、祈りに集中するためです。さらに、断食は、実は、モーセが命じたものではありません。後の時代に、外国に侵略され抑圧されたときに、抑圧からの解放を飲食を忘れて祈ったことが始まりだと思われます。もし、断食の元々の目的が、神に抑圧から解放してもらうためだとすれば、そんな断食をしながら、同胞を強制的に労働させているのは、矛盾しています。そんな祈りは、神はかなえたくてもかなえられないでしょう。キリストはマタイの福音書5章23節で言われました。「祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、(兄弟に罪を犯したことがあり、)兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。」信仰は神との関係ですが、兄弟姉妹とのかかわりと無関係ではありません。私たちがだれかに悪いことをして、その人が恨み、神に報復を訴えているなら、神はその人への愛のゆえに、私たちを祝福することはできないからです。私たちがその人にきちんと謝り、必要なら償い、和解し、その人が私たちの祝福を祈るようになれば、神は心置きなく私たちを祝福してくださるでしょう。

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