2025年2月3日(月)

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聖書一日一章    エレミヤ書 3章

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主の契約の箱について語ることもない。(16節)

ここでは、神は、イスラエルの民を姦淫を行う妻にたとえ、ご自身に対する背信を責められます。北のイスラエル王国が先に背信を行って帰って来なかったが、南のユダ王国はそれ以上の背信を行っていると言われます。それでも、14節では、「背信の子らよ、立ち返れ」と呼びかけ、立ち返るならば、「牧者たちを与え」、「あなたがたの背信を癒やそう」と言われます。エレミヤはそれを聞いて、民を代表して悔い改めます。「今、あなたのもとに参ります。あなたこそ、主だからです。確かに、主に救いがあります」と。

さて、神は16節で、「人々はもう、主の契約の箱について語ることもなく、それが心に上ることもない」と言われます。これは意外です。神はその昔モーセに契約の箱を作らせ、ご自分の臨在の場所として、その前で礼拝し、最も聖なるものとして恐れるように、だれも触れず、見ないように命じられました。イスラエルにおいて、契約の箱は、神殿の中心、礼拝の焦点、それなしでは神殿も礼拝も成立しないようなものでした。それなのに、人々が契約の箱のことを忘れて、思い出すことも話題にすることもなくなるというのです。それも、人々が信仰を捨ててしまうからではなく、正反対で、神に立ち返るからだというのです。これは、モーセの時代から続いてきた宗教がまったく変わってしまうことを意味しています。言うまでもなく、キリストが来られ、新しい契約を結ばれ、新しい宗教が始まることを指しています。

これはすばらしいことです。もともと神が契約の箱を作らせ、尊ばせられたのは、ご自身の存在を人々が認識するためです。そういう物体がないと、神を認識できなかったのです。しかし、キリストは、「わたしを見た人は、父を見たのです」と言われます。ヨハネはその福音書の1章18節で、「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」と言います。キリストが来られた限り、契約の箱は不用です。契約の箱は、祭司しか近づくことが許されず、祭司さえ見ることも触れることもできませんでした。私たちは、キリストを信じるときに聖霊が与えられ、その聖霊によって、キリストに触れることができるのです。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成