2025年2月10日(月)

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聖書一日一章    エレミヤ書 10章

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これこそ私が負わなければならない病だ。(19節)

ここでは、神が語られ、エレミヤがそれに答えて神への信仰を表明し、神をたたえます。

さて、18節で、神は、ご自身を忘れ、諸国にならって偶像崇拝をしている人々を、苦しめることを宣告されます。その直後、エレミヤは19節で、「まことに、これこそ私が負わなければならない病だ」と言います。イスラエルの人々の苦難は、彼らの偶像崇拝に対する当然の報いでした。偶像礼拝が広がり、そのために苦難が多くなるということは、イスラエルをむしばむ病でした。エレミヤは一途に神を愛し従っていましたから、その病とは無縁で、苦難にあう理由はありませんでした。もっとも、苦難は民全体に来ますから、エレミヤだけが逃れられるというわけにはいきませんが、たとえ、どんな災いが来ても、神は彼を何の害も受けないようにされることでしょう。それなのに、その病を、自分が悪いかのように、自分が負わなければならないと思うのです。これは、預言者が神の前で民の代表という意識を持って立っているからで、いわば自分を民と一体化して考えていたのです。そのため、民の罪を自分の罪、民の病を自分の病、民の責任を自分の責任と感じたのです。

これこそ、キリストの姿です。キリストは預言者たちの中の預言者です。普通の人間が神から使命を与えられたに過ぎない預言者たちとは違って、ほんとうに天から遣わされて来られた方です。そんなキリストは、人々を愛するあまり、ご自分を人々と一体化して考えておられました。それで、人々の罪をご自分の罪、人々の病をご自分の病、人々の責任をご自分の責任と受けとめられたのです。私たちもキリストに罪も責任も負ってもらった一人です。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成