2025年2月12日(水)

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聖書一日一章    エレミヤ書 12章

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わたしは、わたしの家を捨てた。(7節)

ここではエレミヤが神に、「なぜ、悪者の道が栄え、裏切り働く者がみな安らかなのですか」と疑問を呈します。次に、いつまでこの地は祝福されないのですかと尋ねます。すると神は5節で、「あなたは徒歩の者と競走して疲れるのに、どうして馬と走り競うことができるだろうか」と言われます。わかりにくいですが、これまでの苦難は、「徒歩の者」との競走、つまり序の口、これからの苦難は馬との競走だという意味です。祝福どころか、もっと大きな苦難が来るのです。その理由として、7節以下で、民がご自身に向かって獅子のようにほえ、彼らの牧者であるはずの王たちがかえって彼らを踏みつけたと言われます。そのため、ご自身の「剣が、地の果てから地の果てに至るまで食い尽くす」と言われます。しかし、同時に15節ではなんと、「再び彼らをあわれみ、自分の地に帰らせる」と、回復を約束されるのです。

さて、7節では、神が「わたしは、わたしの家を捨てた」と言われます。「わたしの家」とは、イスラエルの民のことですが、それを捨てる意志を宣言されたのです。とても厳しい言葉です。しかし、それでも、「わたしの家」と呼んでおられることに愛を感じました。「あなたがたの家」とか「彼らの家」とは呼ばず、「わたしの家」と呼び続けられるのです。神とご自身の民との関係は、どんなに罪を犯しても変わるものではないからです。人々が「私たちは神と関係を持ちたくありません。私たちはもう神の民ではありません」と宣言しない限り、神のほうからその関係を断たれることはないでしょう。

ペテロはその手紙第一2章10節で言います。「あなたがたは以前は神の民でなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。」私たちはもともとは神の民ではありませんでしたが、キリストに出会い、キリストを信じたときに、新しく生まれ、神の民に加えていただきました。私たちは罪を犯してばかりで、神の民にふさわしくない者ですが、神のほうから関係を絶たれることはありません。たとえ道をそれても、関係を絶たれるのではなく、憐れみ、正しい道に戻るように心を砕いて導かれるのです。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成