2025年2月15日(土)
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聖書一日一章 エレミヤ書 15章
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あなたはわたしの口のようになる。(19節)
この箇所は、神とエレミヤとの対話です。神が「たとえモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしの心はこの民に向かわない」と言われます。すると、エレミヤが「ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は全地にとって争いの相手となっている」と、自分の不幸を嘆きます。神はそれを聞いて、「必ずわたしはあなたを解き放って、幸せにする」と慰められます。慰めの言葉にエレミヤは、迫害する者からの守りを祈ると同時に、「なぜ、私の痛みはいつまでも続くのでしょう」と問いかけます。
さて、神は19節で、「もし、あなたが帰って来るなら、わたしの前に立たせる」と言われます。「帰って来るなら」と言われますが、エレミヤは神から離れたことがないので、すべての人に通じる原則を言っておられるのでしょう。人がたとえ神を捨ててさまよったとしても、神に立ち返るならば、裏切ったことを水に流し、み前に立たせてくださるのです。神は実に憐れみと赦しの神です。そのことは、今、神を捨ててさまよっている多くのイスラエルの人々にとって福音でした。私たちにとっても福音です。
神はさらに、「もし、あなたが、卑しいことではなく、高貴なことを語るなら、あなたはわたしの口のようになる」と言われます。「卑しいこと」とは、人々の機嫌を取る言葉のことでしょう。にせ預言者たちはたとえば、神から聞いたわけではないのに、この国はずっと安泰だし、エルサレムはもっと繁栄すると神が言われたと言っていました。あるいはたとえば、「あなたの死んだお父さんはあなたのことを喜んでいて、こう言っている」と、霊媒のようなことを言っていました。反対に、「高貴なこと」とは、神の純粋な言葉、神が語られたままの言葉のことでしょう。「わたしの口のようになる」とは、神がご自分の口として用いられるという意味でしょう。私たちは預言者ではありませんが、いつも聖書から神の言葉を聞いていて、神のみ心を知っています。しかし、私たちは話すときには、聞いている人に気に入られたいと思います。気に入られることよりも、神の口となりたいと思いました。
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