2025年2月16日(日)
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聖書一日一章 エレミヤ書 16章
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わたしは多くの漁夫を遣わす。(16節)
神は「見よ。わたしは多くの漁夫を遣わして、彼らを捕まえさせる」と言われます。「漁夫」と言っても魚をとる漁夫ではなく、人々を捕まえて神のもとに連れて来る漁夫です。そういう人を多く遣わされるというのです。キリストが宣教を始められたとき、ガリラヤ湖のほとりで漁をしている漁師たちを見、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と言われたことを想起します。キリストは旧約聖書の預言をいつも意識しておられ、預言がご自分の身辺で成就するのを観察し、あるいは積極的に預言に従って行動されましたので、その時もこの箇所を意識しておられたに違いありません。私たちも人々を神のもとに連れて来る漁夫として遣わされているのです
しかし、その目的がまったく違います。この箇所では、18節で、「わたしはまず、彼らの咎と罪に対し、二倍の報復をする。彼らがわたしの地を忌まわしいもので汚したからだ」と言われるように、罪を犯している人々をさばき、罰するためです。キリストが罪によって滅びつつある人々を救うために遣わされるのと、まったく反対です。旧約聖書の神は怒りの神、キリストの父なる神は愛の神なのでしょうか。そんなことはありません。同じ神です。どうなっているのでしょうか。
神はたしかに、ほんとうに怒っておられ、ほんとうに愛しておられるのです。神の怒りは、人々が言った通りにしないことでの怒りではなく、ご自身以外のものを慕うことに対する怒りです。それは熱く愛すればこその怒りにほかなりません。実は、この章には、滅びを予告する言葉の中に、救いを予告する言葉、愛の言葉が混在しています。15節では、「わたしは彼らの土地に彼らを帰らせる」と、人々の回復を約束されます。19節ではエレミヤが、諸国の民が神のもとに来て自分たちのむなしい生き方を悔いると言いますが、神が諸国の民を救い、目を開かせられることをほのめかしています。そのため、エレミヤの言葉は矛盾に満ちているように見えるのです。他方、キリストに神の怒りが影さえ見えないのは、キリストがその怒りを全部吸収するおつもりだったからですし、実際十字架で全部吸収されたのです。
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