2025年2月20日(木)

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聖書一日一章    エレミヤ書 20章

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私がつまずくのを待ちかまえています。(10節)

エレミヤが神殿の広場で預言を語っていると、パシュフルという祭司が彼を打ち、神殿の門にある足かせにつなぎました。次の日に解放しましたが、エレミヤは彼に神の、やがて彼も彼の家族もバビロンに引いて行かれるという宣告を伝えました。7節以下は、エレミヤの祈りです。余程ショックだったようで、神に、笑いものになったこと、もう宣教しないと決心したこと、自分の悪いうわさを聞いたこと、最終的には神の勝利を信じたことを訴えます。

さて、エレミヤは10節で、「私の親しい者もみな、私がつまずくのを待ちかまえています」と言います。見ず知らずの人から敵視されるのもつらいですが、親しい人々から敵視されるのは、もっとつらいでしょう。ただ、親しい人々の場合は、苦々しく思っていても黙っていることが多く、「つまずくのを待ちかまえてい」ると言うように、自分の失敗で痛い目にあうのを待ちかまえているものです。親しい人々からそんなふうに思われていることを、以心伝心知って、どれほど寂しく悲しかったことでしょうか。

一般的に、親しい人々は、好みや趣味の違いは許しても、根本的な考えにおいては同調を求めるところがあります。自分自身がそうですから、人もそうだと思います。それで、神に従うことは、この世の考えとの対立を生じ、この世の考えで生きている人々と疎遠になりかねません。それは寂しいことですので、信仰を捨てるかどうかの誘惑を受けます。これこそ、キリストが四つの種のたとえ話で、「この世の思い煩いや富の惑わしが入り込んでみことばをふさぐので、実を結ぶことができません」と言われたことです。

キリストはヨハネの福音書15章19節で言われました。「もしもあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世から選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。」キリストを信じる者が、考え方がこの世と異なり、親しい人々と疎遠になるのは仕方のないことです。それは寂しいことですが、キリストに選び出されていることのしるしです。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成