2025年2月27日(木)

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聖書一日一章    エレミヤ書 27章

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あなたがたはバビロンの王のくびきに首を差し出せ。(12節)

1節に「エホヤキムの治世の初め」とありますが、3節には「王ゼデキヤ」とあり、矛盾していて、20節以下は「ゼデキヤ」でないと通じませんので、写本上の誤りで、正しくは「ゼデキヤの治世の初め」だと思われます。

神はエレミヤに、木のかせを縄で首につけるように、同時に、王と彼のところに来る諸国の使者たちに、「これらの地をバビロンの王に与えたので、彼に首を差し出して仕えよ」と伝えるように命じられました。木のかせを首につけるのは、その伝言を形で表すためです。しかし、当時の預言者たちはさかんに「バビロンの王に仕えることはない」と言っていました。それで、神は、にせ預言者たちを信用するな、信用するとすべてを失う、むしろ、へりくだって仕えよ、そうすれば、未来に必ず解放されると言われました。

さて、木のかせを首につけるのは、奴隷のように仕えることの象徴です。奴隷は、この世界の最も悲惨な現実です。奴隷を解放する試みは古代からありましたが、19世紀まで続きました。現在でも、奴隷の扱いを受けている人はいくらでもいます。神は人間をご自身に似たもの、尊く自由なものとして造られましたから、本来あってはならないものです。罪の結果、人が人を支配するようになり、権力者が出、同時に奴隷も生じたのでしょう。強制的に働かされる人、甘い汁を吸う人という図式は、ひどい現実です。

しかし、神の子でありすべての人の主である方キリストが、「しもべ」になられたのには驚きます。パウロはピリピ人への手紙2章6節と7節で、「キリストは、神の御姿であられるのに、ご自分を低くしてしもべの姿をと」られたと言います。そして、大工として、石を加工し、運び、積むという奴隷のする仕事をされました。刑場まで十字架を背負って歩かされる姿は奴隷そのものです。それは、奴隷というあってはならないものを生み出した醜い罪から私たちを解放するためです。パウロはガラテヤ人への手紙5章1節で言います。「キリストは、自由を得させるために解放してくださいました。ですから、堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」

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