2025年3月1日(土)
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聖書一日一章 エレミヤ書 29章
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その町の平安を求めよ。(7節)
この章はエレミヤがゼデキヤ王の時代に、バビロンに連れて行かれた人々に書いた手紙です。その地で家を建て、果樹園を造り、結婚し、子どもを産み、住みつくように。偽預言者たちがすぐに帰れると言っても、だまされるな。神は70年後に祖国に帰らせると言われる。エルサレムにいる王と人々は剣と飢饉の犠牲となる。そんな内容です。とくに11節の神の言葉は、私たちの心を明るくします。「わたし自身あなたがたのために立てている計画をよく知っている。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
さて、神はバビロンに連れて行かれた人々に7節で、「その町の平安を求め、その町のために主に祈れ」と言われます。無理やり連れて行かれた敵の町のために祈り、その平安を求めるようにというのです。普通はそんなことはできません。恨んで、嫌がらせをしたり暴動を起こしたりしたいところです。しかし、神はその理由として、「その町の平安によって、あなたがたは平安を得ることになるのだから」と言われます。敵の町であることはともかく、自分たちのことだけを考えれば、その町が平安であるほうが自分たちも平安に暮らせるでしょう。自分たちのためになることです。
さらに、神がこの世界のすべてを動かしておられ、すべてのことを公正公平にさばかれることを考えると、その町のために平安を祈ることの意味がよくわかります。キリストはマタイの福音書10章12節と13節で言われました。「その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。その家がそれにふさわしければ、あなたがたの祈る平安がその家に来るようにし、ふさわしくなければ、その平安があなたがたのところに返って来るようにしなさい。」ある人々のために平安を祈って、もし彼らが平安にふさわしく、平安を与えられるのなら、何の悔いもないでしょう。もし彼らが平安にふさわしくないなら、そんな人々のために平安を祈って損したと思うかもしれませんが、そんなことはありません。神は平安をそのふさわしくない人にではなく、祈った人に返されるからです。平安を祈って損することはありません。
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