2025年3月6日(木)
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聖書一日一章 エレミヤ書 34章
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あの子牛のようにする。(18節)
この章は、前の章より少し前、バビロン軍が攻めて来、エルサレムに迫ったころの話です。神からエレミヤを通してゼデキヤ王に、彼はバビロン軍に捕えられ、バビロンに連れて行かれるが、殺されはしないという言葉がありました。次に、人々が、バビロン軍が迫っているのを見て、神の助けを得ようと、神が喜ばれるように、奴隷を解放したのに、バビロン軍が一旦引き返すと、心を翻し、解放した奴隷を連れ戻したのですが、それを責められます。
そして、18節で、「わたしの契約を破った者たちを、彼らが二つに断ち切ってその二つの間を通った、あの子牛のようにする」と言われます。子牛を二つに断ち切ってその間を通ることの意味がわかりにくいですが、これは古代の慣習で、誓うときに、子牛を二つに断ち切り、誓う人がその間を通ることを指しています。おそらく、けっして誓いを破らない、破ったときには、子牛のように断ち切られてもよいという意味でしょう。神は、彼らがそのように誓い、しかも破ったのだから、子牛のように断ち切ると言われるのです。
このことから教えられることは、誓いの厳粛さです。けっして破らない、破ったときには、体を断ち切られてもよいぐらいの覚悟が要るということです。それは、誓いが人間同士の絆の土台であるばかりか、人間と神との絆の土台でもあるからです。キリストがマタイの福音書5章34節で、「決して誓ってはいけません」と言われたのは、誓いは、破ったときには体を断ち切られるぐらいの厳粛なものなので、破るくらいなら、誓わないほうがよいという意味でしょう。しかし、私たちは、神の前で何度、必ずこのことをしますとか、こういうことは二度としませんと誓ってきたことでしょう。そして何度破ってきたことでしょう。それは神への裏切りです。私たちは何度神を裏切ってきたことでしょう。それなら、私たちは体を断ち切られるべき者です。しかし、キリストは私たちの身代わりに十字架にかかってくださいました。それなら、キリストがそこで体を引き裂かれたのは、私たちが体を断ち切られることの代わりに違いありません。それなら、私たちが誓いを破ってきたことは、十字架ですべて帳消しになったということです。
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