2025年3月12日(水)
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聖書一日一章 エレミヤ書 40章
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どこへでも行きなさい。(5節)
バビロン軍に包囲されたエルサレムが陥落し、逃走しようとしたゼデキヤ王は捕らえられ、町は焼かれ、城壁は壊され、人々はバビロンに連れて行かれました。王宮の「監視の庭」に監禁されていたエレミヤは、いったんそこから出され、鎖につながれていましたが、バビロンの王が、彼が降伏を呼びかけていたことを知っていたので、親衛隊の長に彼を釈放するように指示しました。親衛隊の長は、いっしょにバビロンに来るなら世話をするが、気に入らないなら、好きにするようにと言いましたが、エレミヤが決めかねていたので、バビロンの王が総督に任命したユダヤ人ゲダルヤの所に行くように勧めました。7節以下は、ゲダルヤが残された人々にした話です。
さて、5節で、親衛隊の長はエレミヤに、「あなたが行くのによいと思うところへ、どこへでも行きなさい」と言いました。もし私たちがそう言われたら、どこに行くでしょうか。私たちは、生活がありますし、勤めがあり、責任があり、そんな自由はありませんが、責任から解放され、かつ経済的にも余裕がある場合、どこに住むでしょうか。案外、どこに行けばよいのかわからないのではないでしょうか。
創世記13章で、アブラハムは甥のロトに、もめ事を避けるため、離れて暮らすことを提案し、「どこへでも好きな所に行ってくれ。あなたが左なら、私は右に、あなたが右なら、私は左に行こう」と言いました。そのとき、ロトは自由に選べましたが、ソドムの町を選んでしまいました。環境が良く、裕福だったからです。住民が神に対して傲慢であることを考慮しなかったのです。私たちは、暮らし向きに強く惹かれるところがあるので、このような選択をしないように気をつけましょう。使徒時代の使徒たちや伝道者たちは、どこへでも自由に行って伝道したようです。中には、聖霊から、どこそこへ行けと指示された場合もありましたが、多くの場合、祈りつつ、必要とされているか、機会があるかをよく考えて決めたようです。そんなとき、主の栄光のために何が一番良いかを考えて選ぶならば、どこを選んでも後悔することはないでしょう。
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