2025年3月15日(土)

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聖書一日一章    エレミヤ書 43章

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エレミヤを彼らに遣わされたのである。(1節)

エルサレムが廃墟となり、人々がバビロンに連れ去られ、エレミヤを含む残された人々は総督ゲダルヤの下に身を寄せましたが、そのゲダルヤが暗殺されてしまいました。人々は、バビロンの王が任命した総督をイスラエル人が殺したことで、報復されるのではないかと恐れ、どうすればよいか、エレミヤに神のみ心を伺うように頼みました。神から、報復はないので、そこにとどまれとの答えがありましたが、恐れる人々は従わず、エジプトへ行きました。神は、逃げても、バビロン軍をエジプトまで連れてくると言われました。

さて、人々はエレミヤの言葉を受け入れませんでした。このことは、預言者が語っても、神の言葉と受け入れるかどうかは、聞く人の判断にかかっていることを示しています。この時は、彼らの判断が間違っていましたが、判断すること自体が悪いわけではありません。偽預言者もいるので、ほんとうに神の言葉か判断しなければなりません。問題はどんな基準で判断するかです。私たちにとっても、聖書から自分の考えを主張する牧師も多いですし、キリストの名でまったく違った教えを広めるグループもあるので、切実です。判断の基準について、神は申命記18章21節で、「預言者が主の名によって語っても、そのことが実現しないなら、それは主が語られた言葉ではない」と言われます。その人の言葉がその通り実現するかどうかが判断の基準だというのです。また、キリストはヨハネの福音書10章4節で、「牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです」と言われます。キリストを信じ、新しく生まれた人は、キリストの声を知っているので、偽キリストの声と聞き分けることができるというのです。とはいえ、いつも聖書を読み、キリストの声を聞き慣れておかねばならないと思います。このことは、ほかの判断にも応用できます。大事なことを決めなければならないとき、いろいろな情報を調べますし、専門家に相談することもあります。しかし、最終的に判断するのは自分です。どうやって判断すればよいでしょうか。話をよく聞いた上で、最後は自分の心に聞くことだと思います。欲に囚われていないか、みえやねたみにかられていないか、主はそのことを良いと思われるだろうかと。決めたなら、結果は主にゆだねましょう。

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