2025年3月16日(日)
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聖書一日一章 エレミヤ書 44章
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エジプトの地に住むすべてのユダヤ人。(1節)
国が滅び、人々が捕囚となり、エレミヤを含む残された人々は、総督ゲダルヤの下に身を寄せていましたが、そのゲダルヤが暗殺されてしまい、人々は、バビロンの報復を恐れ、エジプトに避難しました。この章は、そのようにしてエジプトに住んだ人々に対する神の言葉です。
さて、イスラエルの人々にとって、エジプトは、潤っていて豊かなので、避難するのに格好の地でした。アブラハムは飢饉のときにエジプトに行きましたし、ヤコブの一家も大飢饉のときにエジプトに避難しました。キリストが生まれて間もないときに、ヨセフとマリアは、ヘロデ王の殺害を避けるために、幼いキリストを連れてエジプトに避難しました。しかし、すべての避難が神のみ心に適っていたわけではありません。アブラハムの場合は、断言できませんが、み心に適っていなかったように思います。ヤコブの場合は、エジプトにいる子のヨセフから招かれて出発しましたが、途中で神から、エジプトに行きなさいという言葉がありました。キリストの家族の場合は、ヨセフが夢に現れたみ使いから命じられたことですので、もちろんみ心に適っています。しかし、このエレミヤの時のイスラエルの人々がエジプトに行くのは、み心に適っていないことが明らかです。国が滅びて不安だったとは言え、神はエレミヤを通し、70年後にバビロンから捕囚の民を帰らせ、国を再建すると約束しておられました。残された人々は、その地を守りながら、その時を待つべきでした。そのうえ、エジプトに出発しようとしたときに、エレミヤを通して、この地にとどまれというみ言葉があったのです。
このように、エジプトに行くこと自体がみ心に反するわけではありません。しかし、人々は基本的にはパレスチナに住むように召されているのですから、神の導きがない限りはそこに留まるべきでした。私たちも基本的に召されている地があるのではないでしょうか。神の導きがない限りは、そこにいることが神のみ心だと思います。もし、嫌になっていたり、恐れがあるなら、神は憐れみ深い方ですから、祈れば、きっと逃れの地を備えてくださるでしょう。あるいは、自分にない力を与えて乗り越えさせられるかもしれません。
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