2025年3月26日(水)
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聖書一日一章 哀歌 2章
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主は、敵のようになって、イスラエルを呑み込まれた。(5節)
哀歌は、エルサレムがバビロンの軍勢によって踏みにじられ、廃墟となったことを嘆いたものです。昔からエレミヤの作だと思われてきました。
さて、この章では、「主が怒って」こういうことをされたということを繰り返し言っています。しかし、実際にそれらのことをしたのは、バビロンの軍勢です。彼らが、弓を放ち、住まいを焼き、城壁を壊し、王や祭司を退けたのです。普通なら、バビロンを憎み、彼らがひどいことをしたと訴え、怒りを燃やすところです。そうしないところに、作者の信仰と世界観が表れています。唯一の全能の神、世界の創造者であり支配者である神を信じる作者にとって、すべての出来事は、神のご支配の下で起こっています。神が起こされることもあれば、人間が神のみ心に反して起こすこともありますが、すべて神のご計画通りに、神の許しのもとで起っていることです。そして、良いことも悪いこともすべては神と自分たちとの間の問題なのです。私たちも唯一の神、全能の神、世界の創造者にして支配者なる神を信じていますが、なかなかそういうふうには考えられません。何か悪いことをされると、した人に腹を立て、憎むのではないでしょうか。それは、神を信じてはいても、信仰に基づく世界観がまだ未熟だからでしょう。もっと成長する必要があります。
そのように、起こった出来事に対する見方が違うと、悲しみ方も違います。11節では、「私の目は涙でかすみ、はらわたはかき回され、肝は地に注ぎ出された」と言います。この涙はバビロンに対する怒り、責め、悔しさの涙ではありません。神の怒りを感じ、その怒りに相当する懲らしめを受けたことによる涙です。いわば親にひどくしかられた時の涙です。自分が情けなく、自分を責めているのです。私たちも、害を受けたときに、自分に非がなければ、それは迫害であり、天に宝を積むことになるので、悲しむどころか喜ぶべきです。自分に非があれば、それこそ自分の罪を悲しみ、悔い、キリストにゆだねましょう。確実に赦していただけます。
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