2025年4月13日(日)
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聖書一日一章 エゼキエル書 15章
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それは何の役に立つだろうか。(4節)
神は、一つのたとえを話されます。「ぶどうの木は森の木立の中にあって、ほかの木より枝がどれだけすぐれているのか。何か役に立つものを作る木材が、そこからとれるというのか。」ぶどうの木は、幹も枝も曲がっているので、木材を切り出すことができず、曲がっているなら曲がっているで、堅ければ、物を吊るすかぎに使えますが、軟らかいので、使えません。ぶどうの木が役に立って愛されるのは、美味しい実を結ぶからです。ぶどうの木が実を結ばなければ、たきぎにしか使えず、火にくべられてしまいます。ぶどうの木はエルサレムの住民のたとえで、彼らは神に喜ばれる実を結ばなければ、何の役にも立たず、滅ぼされてしまうことを指しています。ヨハネの福音書15章のキリストのぶどうの木のたとえを思い出します。そこでは、ここと違って、キリストの「わたしにとどまっているなら、多くの実を結びます」という約束があるので、ほっとします。
ところで、曲がっていて木材にならず、柔らかいのでかぎにもならないという点では、茨も似ていると思いました。しかし、茨は、ぶどうの木なら、実を結びさえすれば役に立ちますが、実を結ぶことができません。役に立たないばかりか、針が出ているので、危険で、嫌われ、避けられ、無条件に刈られて焼かれます。茨はまるで、神の前での罪人のようです。キリストが十字架につけられたときに、そんな茨がキリストを苦しめ、あざけるために使われました。兵士たちが茨で冠を編んで、キリストの頭に突き刺したのです。しかし、それは何よりも尊い冠となりました。王の王である方の王冠となったのです。それは、十字架という暗黒の場で、キリストが王であることを示し、王なる方が民のために代わりに苦しんでおられることを示したのです。私たちは茨のような罪人です。そんな者でも、キリストにかかれば、キリストが世界の王であること、世界の王である方がすべての民のために苦しまれたことを証する者として用いられるに違いありません。
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