2025年4月14日(月)
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聖書一日一章 エゼキエル書 16章
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生きよ。(6節)
神はエルサレムを淫らな娘にたとえられます。捨てられていた赤子を拾い、手塩にかけて育て、着飾り、女王ともてはやされるほど美しく整えたのに、美貌を売りにして、だれとでも見境なく淫行を行ったと言われます。その淫行の様子がこれでもかこれでもかと描かれています。淫行とは偶像礼拝のことです。エジプト人、ペリシテ人、アッシリア人と姦通したというのは、神に頼らず、そういう国々を頼ったことでしょう。さらに、彼女は淫行を行った相手からかえって辱められ、虐待されると言われます。神以外の何かを崇拝すると、その相手からもてあそばれることになります。
さて、神は血の中でもがいていた娘に「生きよ」と言われました。血の中でもがいていたというのは、出産時の大量出血で母親が死に、娘も死にかけている悲惨な状況かもしれません。今なら救命救急態勢が整っているので、助かることが多いですが、昔は子も母親も命を落とすことが多かったそうです。しかし、昔でも、そのようなときに、生きる子は生きたのですが、それはそこに神の「生きよ」というご意志があったからではないかと思います。創世記2章で、神は土地のちりで人を形造り、その鼻に「いのちの息」を吹き込まれました。土地のちりで形造られた時点で、人は生物的には完成していたと思われますが、生きるためには神の「いのちの息」が必要でした。その息は、人を生かす霊的な力であり、ある意味で、神の「生きよ」という命令とも言えます。私たちも、母親のお腹の中にいたとき、どこかの時点で、この「いのちの息」を吹き込まれたのであり、神から「生きよ」と命じられたのです。その意味で、今生きている人はみな神から「生きよ」と命じられていますし、それゆえ、生きることは神のご意志だと言えます。私たちは、悪いことや嫌なことが重なると死にたくなりますし、自分の醜さを自覚して自己嫌悪に陥るときに、自分みたいな人間は死んでしまったほうがよいのではないかと考えるのではないでしょうか。しかし、私たちは生まれるときに、「生きよ」という命令を受けているのです。さらに、私たちが神から「生きよ」という命令を受けているとすれば、神はできないことは命じられないので、必ず生きることができるように、生きる力を与えてくださるはずです。
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