2025年5月8日(木)
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聖書一日一章 エゼキエル書 40章
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その姿は青銅でできているようであった。(3節)
エゼキエルは、神によって、バビロンから空を飛んでイスラエルに連れて行かれ、高い山に降ろされると、そこにエルサレムの町と神殿が建てられているのを見ました。この幻は、エルサレムの町が廃墟となり、何もかも失って打ちひしがれている人々に、大きな励ましとなったことでしょう。彼が驚いていると、み使いが現れ、神殿を案内しました。神殿の外庭の東、北、南の門、内庭の東、北、南の門という具合に、寸法を測って示しながら案内しました。
さて、エゼキエルを案内したみ使いのことですが、3節には、「その姿は青銅でできているようであった」と記されています。全身が金属でできているといえば、ロボットのようだと思いました。そういえば、最初に神の言葉を伝言しただけで、あとは無言で神殿の各所を案内し、黙々と各部分の寸法を測っていくその動きは、まるでロボットです。
み使いは霊的存在であり、ロボットのようなただの機械ではありませんが、それでも共通点があります。主人に完全に忠実であることです。自分の都合や気分によって従わなかったり、自分の考えで動いたり、私情を挟んだりしません。とくにみ使いは、その名からして神のメッセージを伝えるのが仕事ですが、受けた通りに完全に伝え、加えることも削ることもしません。私たちは忠実という点では、み使いはおろか、ロボットにもかないません。
しかし、神に似たものとして造られ、自分で自由に何でも考え、決める意志を持っているという点では、どうでしょうか。その点ではみ使いよりまさっているのではないかと思います。私たちは今、欲望や気分に引きずられ、あるいは、疑ったり、反抗したりで、なかなか神に従えませんが、ずっとこのままではありません。キリストによって救われている限り、やがて復活して新しい世界に入るときに、救いが完成し、完全な人間性を持つはずです。そのときには、自分の意志で自由に行動して、神のみ心にぴったり一致し、忠実でありえるでしょう。そうなれば、私たちはみ使いよりもすぐれたものになるのではないでしょうか。その時を目指してもっともっと進みましょう。
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