2025年5月10日(土)
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聖書一日一章 エゼキエル書 42章
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部屋は北側の部屋と同じように見えた。(11節)
エゼキエルは、幻の中で、イスラエルの地に連れて行かれ、エルサレムの町と神殿が建てられつつあるのを見、神殿をみ使いの案内で見学しています。ここでは、本堂の両側に建つ2つの3階建ての建物を見学します。その建物内の部屋は、祭司たちが、儀式として、いけにえの肉を食べる場所でした。
さて、南の建物について、11節は、「部屋は北側の部屋と同じように見え、長さも同じ、幅も同じであった」と言います。つまり、本堂の北と南の建物は、大きさも形も構造もまったく同じだったというのですが、正面から見ると、本堂の両側にまったく同じ建物があって、左右対称になっているということです。神が設計されたこの神殿が左右対称であるということは、神が左右対称を好まれるということでしょうか。考えてみると、神が造られた私たち人間も、左右対称の姿をしていますし、ほとんどの動物も左右対称です。もっとも、そうでないものもたくさんありますので、神は美しいバランスを好まれ、その一つが左右対称だということでしょう。
神は美しいバランスを、物の形だけでなく、正義や報いということにも求められます。たとえば、何人かの人が同じだけ働いたのに、一人だけが報酬を受けることは、不公平で、正義に反しますが、神が求められる美しいバランスに欠いているとも言えます。ですから、神が公平さを望まれることは、美しいバランスを望まれることでもあります。パウロはテモテへの手紙第二2章6節で、「労苦している農夫こそ、最初に収穫の分け前にあずかるべきです」と言いますが、人一倍労苦している人が人一倍の報酬にあずかるべきだというのは、それが神が求められる美しいバランスだからでしょう。
しかし、神が愛情から無償で与えられるもの、つまり恵みの場合は異なります。永遠のいのちはその最たるものですが、行いによらず、無償で与えられます。良い行いの人にも悪い行いの人にも、同じように与えられますが、美しいバランスと矛盾するのではないでしょうか。神の限りない愛によっては、人の良さや悪さ、善行や罪がみな包まれ、消えてしまうということでしょう。
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