2025年5月12日(月)

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聖書一日一章    エゼキエル書 44章

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この門は閉じたままにしておけ。(2節)

エゼキエルは、幻の中で、イスラエルの地に連れて行かれ、エルサレムの町と神殿が建てられつつあるのを見、神殿を、み使いの案内で見学しています。ここでは、正面の東の門についての説明があり、次に、神殿で仕える祭司たちの規則についての説明がありました。この規則は、祭司だったエゼキエルには興味深かったでしょうが、私たちにとってはややこしいだけです。

さて、東の門はそのとき閉じられていましたが、それについて、神が、「閉じたままにしておけ。だれもここから入ってはならない。主がそこから入ったからだ」と言われます。「主がそこから入った」と言われるのは、エゼキエルは前の章で、1章で見た神の栄光を表す幻を再び見ましたが、その幻がその門を通って入ったことです。そのため、その門は特別なものとして取り分け、閉じたままにして、だれも出入りさせないようにせよというのです。

この東の門が、実際に再建された神殿ではどうだったのか気になったので、調べてみました。ずっと後のキリストの時代になって初めてユダヤ人の歴史家による記録があるのですが、やはり、普段は閉じられていたそうです。そして、年に一度だけ、レビ記16章で定められた「贖いの日」に、山羊を野に放つために、門を開き、大祭司が連れて出たそうです。もし、キリストが再臨されるときに、エルサレムに入られることがあるなら、その時こそ、その門から入られるでしょう。そのために取り分けられているのですから。

その門だけでなく、主が用いられるためだけに取り分けられたものがありますし、私たちにもあります。献金は、神が用いられるためだけに取り分けたお金です。ですから、使い道はよく考えて、その目的のためだけに使わなければなりません。また、クリスチャンが一日のうちで聖書を読んだり祈ったりする時間をデボーションと言いますが、デボーションという英語は「献げること」という意味です。私たちが一日の時間の中で、神のために取り分けた時間だからです。主への奉仕として、どなたかを訪問しよう、あるいは、ボランティアをしようと思って取り分けた時間もそうだと思います。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成