2025年5月15日(木)

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聖書一日一章    エゼキエル書 47章

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この水が入ると、そこの水が良くなる。(9節)

エゼキエルは、幻の中で、イスラエルの地に連れて行かれ、新しいエルサレムの町と新しい神殿を、み使いの案内で見学しています。ここでは、神殿の地下から水が湧き出し、東のほうへ流れ、水かさが増し、大きな川となり、死海に注いでいます。川の両岸にはあらゆる果樹が生え、毎月新しい実をつけるほど元気で、そこにはあらゆる生き物が群がっています。まさにいのちを与える水の川です。この光景はヨハネの黙示録22章1節と2節の新しい世界の「水晶のように輝くいのちの水の川」の光景にそっくりです。

さて、その水について、9節では、この水が入ると、どこの水も良くなると言います。8節では、その水が死海に注ぐと、そこに非常に多くの魚がいるようになると言います。これはありえないことです。死海の塩分濃度は30%、海の塩分濃度の10倍で、生物が生きられる塩分濃度をはるかに超えています。そんな死海を生物が生きられるようにするとすれば、その水は普通の水ではなく、あらゆるものを奇跡的に変えてしまうようなものです。

キリストはヨハネの福音書7章38節で、ご自分を信じる者にその「生ける水の川」を与えることを宣言されました。福音書の著者のヨハネが、キリストを信じる者が受ける聖霊のことだと解説しています。だとすると、エゼキエル書のこの水も聖霊のことだと解釈してよいでしょう。それなら、キリストを信じ聖霊を受けた私たちは、その水をすでに持っていることになります。

私は思い出してみると、小さい頃から勝ち気が強く、「やられたらやり返せ」という考えでした。自分が見下されたり、仲間はずれにされたりすると赦せず、何としてでも仕返しをしようという気持ちでした。と言っても、殴り合いになるのはいやなので、賢く仕返しできないかといろいろ考えていました。しかし、キリストに出会い、私の中に聖霊が注がれてから、そんな気持ちは少しずつ消え、また、そんな気持ちを起こすことも少しずつなくなりました。この世は汚い水の沼のようで、とても生きにくいです。しかし、聖霊が注がれると、水が良くなり、生きやすくなると思います。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成