2025年6月18日(水)
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聖書一日一章 アモス書 4章
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わたしのもとに帰って来なかった。(6節)
この章には、「それでも、あなたがたはわたしのもとに帰って来なかった」という文が5回もあります。「それでも」というのは、様々な災難を与えたけれども、という意味です。「わたしのもとに帰って来なかった」と言われるのには、ご自身のもとに帰って来てほしいというお気持ちを表しています。つまり、神は人々がご自身のもとに帰って来るように災難を起こされたというのです。たしかに、人は苦難に追いつめられないと、神に助けを祈り求めません。キリストのたとえ話に登場する放蕩息子も、父のことを思い出したのは、食べるのに困ったからで、そうでなければ、たとえば、お金は派手に使っても、商売に成功していたら、思い出さなかったでしょう。
私自身、十代の頃に、体の不調や家庭の不和や性格の欠点で、死にたいと思うぐらい悩みましたが、そのように悩むことがなければ、何のために生きているのかとは考えなかったでしょうし、聖書に興味を持たなかったでしょうし、神を求めることもなかったと思います。
それにしても、神が災難を起こされることには、割り切れないものがあります。人々がご自身に立ち返るためとは言え、あるいは、それが人々の永遠の幸せのためとは言え、それでも、神が災難という悪をもって人々を正されることには引っかかります。神はいかなる点でも正しい方で、悪を手段にすることはありえないように思います。と思って考えてみると、これらの災難は、「わたしが起こした」と言っておられますが、特別な奇跡的災難ではなく、この世界で普通に繰り返し起こっている災難です。それは、この世界に住んでいる限り、だれも避けられない災難で、神が意図的に起こされたものではありません。アダムとエバが悪魔の言葉に従ったときに、「大地は、あなたのゆえにのろわれる」と言われたことによるもので、罪ののろいとしての災難です。いわば、人間が引き起こしたものです。その災難を、神は人間をご自身に立ち返らせるために用いられるのです。「わたしがこういうことをした」というのは、人々に気づかせるための擬人的な表現でしょう。神はそれほどまでに私たちがご自身に立ち返ることを願っておられるのです。
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