2025年6月21日(土)

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聖書一日一章    アモス書 7章

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行って、わたしの民イスラエルに預言せよ。(15節)

後半は、アモスが受けた迫害の記事です。ベテルという町の祭司、と言っても子牛の像に仕える祭司ですが、北部イスラエル王国の王に、アモスが謀反を企てているとざん言し、アモスには、ここでは二度と預言するな、南部のユダ王国に行けと言いました。アモスは、神が「預言せよ」と命じられたので預言しているのに、「預言するな」と言うのかと反論しました。

さて、アモスが迫害されたのは、アモスが北部イスラエル王国の子牛の像礼拝を責め、創造主なる神を拝むように訴えたからです。子牛の像礼拝はこの国の伝統なんだ、邪魔をするな、創造主なる神の礼拝ならユダ王国でやってくれと言われたのでしょう。しかし、その国の人々は、もともとは創造主なる神によってエジプトから救い出されたイスラエル人ですから、子牛の像礼拝こそ道ならぬことです。アモスは、道ならぬことをしていると、神の祝福を受けられないので、彼らが神の祝福を受けられるように、そのことを責めたのです。子牛の像の祭司は迫害しましたが、その国の多くの良心的な人々は共感し、自分たちの幸いのために言ってくれたと受けとめたことでしょう。

しかし、もしアモスが外国で預言したとすれば、どうでしょうか。創造主なる神だけが唯一の神で、その神だけを拝むように、偶像を拝むのは間違っていると、真理を伝えたら、どうでしょうか。偶像礼拝者たちが怒るのは当然ですが、良心的な人々も共感しないでしょう。パウロがアテネで伝道したときのように、「このおしゃべりは、何を言っているのか」、「彼は他国の神々の宣伝者のようだ」と言われ、他の宗教を宣伝しているようにしか受け取られないでしょう。それは日本の私たちが置かれている状況です。他の宗教の宣伝だと思われたら、真理が正しく伝わりません。自分たちの幸いのために、その道を伝えてくれていると受けとめられなければなりません。愛の神のことを愛の実践をもって、ゆっくり伝えていかなければなりません。そうすれば、きっと聖霊が心を開いてくださることでしょう。パウロはテモテへの手紙第二4章2節で言います。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。忍耐の限りを尽くし、絶えず教えなさい。」

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成