2025年6月22日(日)

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聖書一日一章    アモス書 8章

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実に、主のことばを聞くことの飢饉である。(11節)

1節で、神はアモスに夏の果物の幻を見せ、「イスラエルに終わりが来た」と言われます。ヘブル語では、「夏の果物」は「カイツ」、「終わり」は「ケーツ」で、語呂合わせになっています。北部のイスラエル王国の滅亡の預言です。その滅亡を招く人々の悪の例として、4節から8節で、ずるいことをして儲け、貧しい人を金で買っていることを挙げられます。9節以下では、滅亡の日に起こることを語られます。

さて、11節では、滅亡の日のこととして、神は、「そのとき、わたしはこの地に飢饉を送る。パンに飢えるのではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことの飢饉である」と言われます。当時、神の言葉としてすでに書かれていたモーセ五書などの聖書がありましたが、聖書を個人で持てるような時代ではなく、人々は集会で朗読を聞くだけで、北部のイスラエル王国ではその集会さえも途絶えていたと思われます。また、当時は預言者が多くいて、アモスのようにイスラエル王国まで遣わされて来る預言者もいて、まだ神の言葉を聞くことができましたが、滅亡後は、そんな機会もなくなってしまい、聞きたくても聞けない状況、み言葉の飢饉になるのです。キリストがヨハネの福音書12章36節で、「光があるうちに、光の子どもとなれるように、光を信じなさい」と言われましたが、神の言葉を聞けるうちに、キリストを信じて、神との関係を確かにしなければなりません。

ところで、現在は、聖書が世界中に行き渡り、個人が聖書を持てる時代です。だれでも、聖書を読みたいと思えば、読めます。もっとも、昔のソ連や開放政策前の中国では、聖書が禁書になっていて、手に入れるのが困難でしたが、そんなことでもなければ、いつでも聖書を読めるので、み言葉の飢饉になることはないのでしょうか。そんなことはないと思います。それどころか、現在の多くの人の心は、聖書の言葉が響かなくなっていて、読むことはできても、言語としての意味はわかっても、真の意味で神の言葉を聞けなくなっています。ですから、現在はみ言葉の飢饉です。ものすごい飢饉です。そんな時代にあって、もしみ言葉が心に響くなら、それは救われている証拠です。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成