2025年6月23日(月)
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聖書一日一章 アモス書 9章
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わたしは倒れているダビデの仮庵を起こす。(11節)
1節に、「私は、祭壇の傍らに主が立っておられるのを見た」とあるように、アモスは神を「見る」という体験をするのですが、神は人間が見ることができない方ですので、その存在を示す光を見たのではないかと思います。神がそこに立たれた理由は、その祭壇が子牛の像のための祭壇で、その像を拝んでいる人々に厳しいさばきを宣告するためでした。
11節と12節では、神が、未来になそうとしておられるすばらしいことを宣言されます。「その日、わたしは、倒れているダビデの仮庵を起こす。その破れを繕い、その廃墟を起こし、昔の日のようにこれを建て直す。これは、エドムの残りの者と、わたしの名で呼ばれるすべての国々を、彼らが所有するためだ。」「倒れているダビデの仮庵」とは、ダビデの王国が「倒れている」仮小屋のようになった、つまり、落ちぶれたことを指しています。神はそのような王国を建て直すと言われます。「エドムの残りの者」とは、エドムは異邦の国の代表で、その国の、神がご自身のために取っておかれる人々のことです。未来に神を信じる異邦人が多く出ることをほのめかしています。「わたしの名で呼ばれるすべての国々」とは、神の民となった国々のことで、やはり多くの国が神を信じるようになることをほのめかしています。使徒の働き15章では、キリストの兄弟ヤコブがこの箇所を、当時キリストを信じる異邦人が爆発的に増えていましたが、その預言とみなしています。
さて、「倒れている仮庵」から神の国を起こされるというのは、後にキリストが神の国を起こされる様子をよく表しています。キリストは家畜小屋で生まれ、貧しく育ち、何も持たずに宣教の旅をし、落ちぶれた姿の極致である十字架の死に至られました。神の国はそこから始まりました。後の教会も、小さな家庭集会や仮小屋のような所から始まっています。キリストのからし種のたとえを思い出します。「神の国はどのようにたとえたらよいでしょうか。それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときは、地の上のどんな種より小さいのですが、蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張って、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」
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