2025年6月26日(木)

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聖書一日一章    ヨナ書 2章

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よみの腹から私が叫び求めると。(2節)

預言者ヨナは、神からアッシリアの都ニネベに宣教に遣わされましたが、その命に反し、船で反対方向の国へ行こうとしたところ、暴風で船が難破しそうになりました。自分のせいだとわかったヨナは、水夫たちに自分を海に投げ込むように言い、彼らがそうすると、暴風は治まりました。ヨナは溺れ死ぬところ、神が大きな魚に飲み込ませられたので、助かりました。

さて、2節でヨナは死を「よみの腹」と表現しています。聖書は、人間が肉体だけの存在ではなく、魂と呼ばれる、神の霊の一部を持っていて、死はすべての終わりではなく、肉体は朽ちても、魂はなくならないと教えています。旧約聖書では、まだキリストが来られていないので、死後のことが明確に啓示されていず、死後に行く場所を漠然と「よみ」と呼んでいます。ここでの「よみの腹」という表現は、あたかも「よみ」に食べられてその腹に閉じ込められるような表現です。6節では、「地のかんぬき」と言っていて、あたかも地中にかんぬきで閉じ込められるような表現です。同じ節の「滅びの穴」という表現は、絶望的です。これらの表現から言えることは、一つは、そこは望んで行く場所ではなく、意に反して入れられる場所だということです。望まないのに、死ぬとそこに入れられるのです。一つは、そこは出たくても出られない場所だということです。一つは、そこは、腹の中のような、あるいは地中のような、狭くて暗い場所だということです。さらに、私にとっては最も耐えがたいことですが、何もしないでボーっとしている退屈な場所だということです。死後そんな場所に行くと思うと、ぞっとします。

このような、旧約聖書で教えられる「よみ」に比べ、キリストによって啓示された、キリストを信じる者が死後導かれる世界は、なんとすばらしいものでしょう。ヨハネは黙示録21章1節以下で言います。「私は、新しい天と新しい地を見た。見よ。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。もはやのろわれるものは何もない。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。」

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成