2025年7月14日(月)

_____________________________________________________________________________

聖書一日一章    ゼパニヤ書 3章

_____________________________________________________________________________

へりくだった、貧しい民を残す。(12節)

預言者ゼパニアは、ここでも、エルサレムの滅びを予告し、さらに未来の、廃墟となったエルサレムの回復とイスラエルの民の回復を予告しています。

さて、12節で神は、「わたしは、へりくだった、貧しい民を残す」と言われます。神は「へりくだった、貧しい民」を、王国とエルサレムの滅びのときにも、生き延びさせられるのです。その人々は、やがてイスラエルの回復を見、喜ぶことができるので、とても幸いです。この言葉から、マタイの福音書5章のキリストの山上の説教の言葉、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」を思いました。

ここで、「へりくだった」とは、神に向かって自分を低い者、小さい者、取るに足りない者と自覚していることでしょう。それは、神を高く偉大で大事な方と考えることであり、神を主、自分をしもべとして仕える態度でしょう。それは、神を愛する人々に共通した特徴です。キリストが「心の貧しい者」と言われたのは、まさにそういう「へりくだった」人のことに違いありません。私たちもそのような「へりくだった」人になりたいと思います。

それでは、どうして「貧しい民」と言われるのでしょうか。神の前でへりくだることと、経済的に貧しいこととは、別のことです。しかし、山上の説教のキリストの言葉も、ルカの福音書6章では、「貧しい人たちは幸いです」となっていて、経済的な貧しさをほのめかしています。神に向かってへりくだるなら、貧しくなければならないということはありませんが、それでも、持ち物を贅沢に持つことはできないと思うのです。というのは、キリストがマタイの福音書6章19節で、「地上に宝を蓄えるのはやめなさい。天に宝を蓄えなさい」と言われるからであり、天に宝を蓄える近道は分け与えることで、分け与えれば、あり余ることはないからです。そういう人について、パウロはコリント人への手紙第二9章9節で、「貧しい人に惜しみなく分け与えた人の義は永遠にとどまる」と言います。また、キリストは、「受けるよりも与えるほうが幸いである」と言われるのです。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成