2025年7月19日(土)

_____________________________________________________________________________

聖書一日一章    ゼカリヤ書 3章

_____________________________________________________________________________

サタンが彼を訴えようとしてその右手に立っていた。(1節)

ゼカリヤはまた幻を見ました。「主のみ使い」と呼ばれる特別なみ使いの前に、民の指導者である大祭司ヨシュアが立っていて、その右手にサタンが彼を訴えようとして立っていました。ヨシュアは汚れた服を着ていましたが、前にいるみ使いが、仕えるみ使いたちに命じ、彼の汚れた服を脱がせ、礼服を着せ、ターバンもかぶらせました。すると、今度は、神が彼に、ご自身の道を歩むことを条件に、イスラエルの国の未来の栄光を約束されたのです。どうもヨシュアに何かの汚点があって、人々から非難されていたようです。指導者にそんな問題があることは、神殿を再建する上で大きな障害ですが、おそらく彼は悔い改めていたのでしょう、神は彼を赦し、きよめ、指導者として改めて認め、祝福されたということでしょう。

さて、幻の中で、サタンがヨシュアを訴えようとしていましたが、いくらヨシュアに汚点があるとは言え、悪の根源であるサタンが彼を訴えるというのは、おかしなことです。「そんなことを言える立場か」と突っ込みたくなります。しかし、自分のことは棚に上げ、人を非難するのが、サタンの常道ですから、仕方ありません。ヨブ記でも、ヨブを訴えています。ヨハネの黙示録12章10節では、サタンのことを、「兄弟たちの告発者、昼も夜も私たちの神の御前で訴える者」と言っています。サタンはいつもこの世の人々を取り込もうとしているので、この世の人々はみなある程度サタンにだまされています。そのため、人は、自分はたたけば埃が出る者なのに、自分のことは棚に上げて人を非難する傾向があります。

ですから、キリストはマタイの福音書7章で言われます。「あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気づかないのですか。まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。」もし、心の中でだれかのことを責めているなら、サタンに惑わされ、自分の悪を棚上げにしていないか疑いましょう。そして、自分の悪を探り、神に告白し、キリストの十字架のゆえに赦していただき、心のきよめのために祈りましょう。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成