2025年7月23日(水)
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聖書一日一章 ゼカリヤ書 7章
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本当にこのわたしのために断食したのか。(5節)
1節に「ダレイオス王の第四年」とありますが、神殿再建の工事が再開したのが第2年、4年かかりましたから、第4年は、だいぶ建て上がってきた頃です。その頃、ある有力者が祭司や預言者たちに、第5の月の断食を続けるべきかと尋ねてきました。神殿が破壊されたことを悲しむ断食なので、新しい神殿の完成間近な今、もうやめてもよいのではないかと思ったのです。そのとき神がゼカリヤに、やめるかどうか以前に、今まで真実な断食をしてきたのか、偽りの断食をするより、互いに善意を示し合えと言われました。
さて、神は人々がしてきた断食について、「本当にこのわたしのために断食したのか、自分たちのためではなかったか」と言われます。断食を健康のためにするのならともかく、信仰的な行為としてするのならば、神のために、つまり、神の目的に沿って、神の栄光のためにしなければなりません。しかし、信仰的な行為である断食でも、自分のためにするということがあるのです。キリストはマタイの福音書6章16節で、「あなたがたが断食をするときには、偽善者たちのように暗い顔をしてはいけません。彼らはすでに自分の報いを受けているのです」と言い、人々から尊敬という報いを受けるためにすることを戒められました。
断食だけではありません。礼拝、祈り、献金、施しなどの信仰的行為もみえのためにすることもあります。ヨハネはその手紙第三1章9節で、「彼らの中でかしらになりたがっているディオテレペスが、私たちを受け入れません」と言います。教会の働き人の中に、教会のかしらになるという目的のためにしている人がいたのです。すべての働き人にその誘惑があるかもしれません。
信仰的な行為や働きは、みえや自己満足のためではなく、神のために、つまり、神の栄光のために、人々の救いのために、自分と兄弟姉妹の信仰の成長のために、神が愛しておられるすべての人々のためにすることです。そのときに、神の祝福があり、心からの喜びがあり、みのりがあり、信仰の成長があると思います。
テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944 鷹取 裕成
