2025年7月27日(日)

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聖書一日一章    ゼカリヤ書 11章

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わたしが彼らに値積もりされた、尊い価を。(13節)

ここでは、神がゼカリヤにある預言的なパフォーマンスをさせられます。ゼカリヤが牧者になり、羊を飼い、自分の2本の杖に「慈愛」と「結合」という名をつけます。そこまではわかるのですが、3人の牧者と決裂したとか、怒ってその杖を折ったとかよくわかりません。とくに、商人たちに賃金を要求したところ、銀30シェケルをくれたが、神が「それを陶器師に投げ与えよ」と言われたので、そうしたというところが、よくわかりません。しかし、マタイの福音書27章では、イスカリオテのユダが、キリストを売るのと交換に銀貨30枚を祭司長たちから受け取ったのですが、悪いことをしたと後悔し、祭司長たちに返したところ、彼らは陶器師の畑を買い、異邦人用の墓地にしたと言います。そして、この箇所がその預言だと言うのです。たしかに、牧者が銀貨30枚で値積もりされることと、そのお金が陶器師の手に渡ること、そして、何よりも、神が牧者のことを「わたし」と言っておられるように、神である牧者が値積もりされることが、その通りになっています。

ところで、キリストのいのちは祭司長たちによって銀30シェケルと値積もりされました。現在の30万円くらいです。普通の人間でも、いのちの値段が30万円というのは安すぎます。まして、キリストのいのちが30万円というのは、バカにするのもいい加減にしろと言いたいところです。

しかし、真実は、キリストは神のみ子ですから、そのいのちは限りなく尊く、値積もりなどできるわけがありません。そんな尊いいのちを私たちを救うために捨ててくださいました。そのことは、言葉にできないほどもったいないことです。どんなに感謝しても足りません。

それにしても、私たちを救うために、なぜそんな尊いいのちを捨てなければならなかったのでしょうか。神のみ子ならどんなことでもできるはずですから、もっとほかの方法はなかったのでしょうか。キリストがその尊いいのちを捨てなければならなかったのは、私たちのいのちが尊いからでしょう。ご自身の限りなく尊いいのちで贖うしかなかったのです。私たちにはほんとうに尊いいのちが与えられているのです。自覚しましょう。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成