2025年8月3日(日)
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聖書一日一章 マラキ書 4章
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牛舎の子牛のように跳ね回る。(2節)
5節の「見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす」は、キリストがマタイの福音書11章で、バプテスマのヨハネを指して「この人こそ来るべきエリヤ」だと言っておらますので、彼のことに違いありません。すると、1節の「見よ、その日が来る。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は藁となる」というさばきの日の予告も、2節の「わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る」という、義に輝く方が来られ、敬虔な者が日の目を見るという約束も、彼のメッセージに一致しています。バプテスマのヨハネは、この預言通り、キリストをさばき主として期待していましたが、実際には、神の憐れみによって送られた、罪深い者でもご自身のいのちに代えて救う救い主として、来られました。ですから、私たちはこのマラキの預言もそのように理解しなければなりません。キリストを指す「義の太陽」も、義に輝く方と理解するだけでなく、太陽が光を無限に与えるように、義を無限に与える方と理解するのがよいでしょう。
ところで、2節では、「義の太陽」が昇ると、「あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る」と言います。牛舎の子牛は、暗く狭い所にいるので、太陽の明るい光が降り注ぐ野原に出してもらうと、喜んで跳ね回りますが、「義の太陽」であるキリストが現れると、人々はその光に照らされ、喜んで跳ね回るというのです。それは、キリストの光によって解放され自由になるからです。罪はすべて赦され、恐れから解放され、しなければならないという義務は消え去り、励む目標となります。また、キリストの光によって癒されるからです。罪は魂の病気でもありますが、キリストにより聖霊により癒されます。魂の癒しは肉体の癒しにも精神の癒しにもつながります。また、キリストの光によって悪魔に勝利できるからです。どんな強い人も悪魔には勝つことができず、その誘惑とわなにはまってしまいますが、キリストによっては弱い私たちでも悪魔に勝利することができます。キリストによって喜び躍りましょう。
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