2025年8月9日(土)
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聖書一日一章 マタイの福音書 6章
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天に宝を蓄えなさい。(20節)
キリストの山上の説教の続きです。人に見せるための善行や信仰的行為、つまり偽善をしないように、神を信じる者は何のために働くべきか、どう祈ればよいか、神を信頼して生活のことを心配しないようにと教えられます。
さて、19節と20節で、「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。(むしろ)天に宝を蓄えなさい」と言われます。この言葉は、お金のことで、余裕のある分を貯めておくか、あるいは神のためにつまり宣教のためや困っている人々のために使って、天に蓄えるかで、天に蓄えるように勧めるものです。クリスチャンは、献金をすることで、天に蓄えることを実際に行っているのではないでしょうか。
しかし、お金ではなく、形のない努力や苦労についてはどうでしょうか。教会の奉仕やボランティアで、一生懸命汗を流してきたのに、次の人に代わった途端、名前まで忘られてしまうような場合、「冷たい」と思うのではないでしょうか。それは、自分の苦労を人々に覚えてもらいたいからです。この、自分の苦労を人々に覚えてもらう、つまり人々の記憶に残すというのが、実は、地上に宝を蓄えることなのです。反対に、天に宝を蓄えるということは、神に憶えていただくことで満足することです。
この違いは、宝を地上に蓄えるか天に蓄えるかの違いであるだけでなく、神がおられるとほんとうに信じているかどうかの違いだと思います。神がおられると信じていないと、神が憶えておられるはずがありませんから、天に蓄えること自体が無意味です。反対に、全能の神がおられ、なんでも与えることができるとほんとうに信じているなら、神に憶えていただくだけで十分でしょう。必ず豊かな報いがあるはずだからです。25節では、「何を食べようか何を飲もうかと、心配したり、何を着ようかと、心配したりするのはやめなさい」と言われますが、これも同じでしょう。全能の神がおられるとほんとうに信じているなら、食べる物も着る物も必ず与えてくださるので、心配する必要がありません。神はほんとうにおられます。信じましょう。
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