2025年8月13日(水)

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聖書一日一章    マタイの福音書 10章

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預言者を受け入れる人は、預言者の報いを受けます。(41節)

キリストはガリラヤ地方の町や村を巡っておられましたが、迷える子羊のような人々を見て、働きを拡大する必要を感じ、十二弟子を選び、町や村に遣わすことにされました。5節以下はそのときに弟子たちにされた訓示です。

さて、キリストは14節で、「だれかがあなたがたを受け入れないなら、その家や町を出て行くときに足のちりを払い落としなさい」と言われます。一見冷たく聞こえますが、信じるかどうかはその人々の主体的な意志によるべきで、是が非でも信じてもらおうとすることは、その意志を蔑むことになり、押し付けになります。足のちりを払うのは、その意志を確認する演技です。

15節では、受け入れなかった町について、「さばきの日には、ソドムとゴモラの地のほうが、その町よりもさばきに耐えやすいのです」と言われます。せっかく来てくれて、救いの道を知らせてくれたのに、拒否することは、もちろん責められることですが、淫乱の町ソドムやゴモラよりも厳しいさばきを受けるというのは、抵抗があります。今回受け入れなかったとしても、次回訪ねるときには、受け入れるかもしれません。一度拒否したからと言って、その言い方は厳し過ぎるのではないでしょうか。

そう思うのは、日本の宗教環境で考えるからでしょう。日本なら、キリストのことを初めて聞いてすぐ信じる人はまずありません。キリストのこと以前に、創造主なる神を信じていないからです。しかし、当時のイスラエル人は違います。敬虔な人であろうとなかろうと、神の存在は信じていました。そして、神が世の終わりにすべての人の行いをさばかれることも知っていたでしょう。また、昔の預言者たちの話を小さい時から聞いていて、神が預言者を遣わされることも信じていました。それなら、神から遣わされたイエスという人の弟子が訪ねてきて、神から遣わされた証拠に、病気を癒したり、悪霊を追い出したりしたなら、その言葉を聞くのが普通でしょう。聞かないのは、神への特別な敵対心の現れです。しかし、私たちは、そういうわけにはいきません。7の70倍回拒否しても、神は機会を与えてくださるでしょう。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成