2025年8月20日(水)

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聖書一日一章    マタイの福音書 17章

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これはわたしの愛する子。(5節)

キリストがペテロとヤコブとヨハネだけを連れ、高い山に登られ、その上で姿が変わり、そこにモーセとエリヤが現れたこと、山を下ると、弟子たちがてんかんの子を癒せなくて困っていて、キリストが癒されたこと、神殿税を、ペテロに魚を釣らせ、その口から出た銀貨で納められたことを記しています。

さて、高い山の上で、モーセとエリヤが現れたとき、ペテロは言葉に尽くせないほど感激しました。小さい頃から聞かされてきた大昔の偉大な人物が目の前に立っていたからです。そこで、「私がここに幕屋を三つ造ります」と言いました。なぜ幕屋を造ろうと思ったのか、正確にはわかりませんが、おそらく、すばらしい方々が現れたので、聖なる地として記念し、礼拝しよう、そのために幕屋を造ろうと思ったのでしょう。記念礼拝堂のようなものです。

しかし、このとき、ペテロはキリストをモーセやエリヤと同列に置いているように見えます。3人に同じように3つの幕屋を造ろうとしているからです。ペテロは前の章で、キリストのことを「あなたは生ける神の子キリストです」と言って、「神の子」と認めたのに、モーセやエリヤといった偉大な人物が現れると、同じようにみなしてしまったのです。しかし、次の瞬間、彼のそのような見方は破壊されました。光り輝く雲がそのあたりを覆いました。神の臨在のしるしでしょう。その雲の中から、「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声が聞こえました。神がキリストをご自身の愛する子だと宣言されたのです。

キリストが神のひとり子で神の本質を持っておられるということは、キリスト教の基本的な信仰です。クリスチャンであるかどうかはそれを信じるかどうかにかかっています。しかし、この、人であるキリストが実は神だという信仰は、ほんとうに信じがたいものです。この信仰はキリストの弟子たちから伝えられたものですが、彼らはどのようにそれを信じたのでしょうか。天からの声とその内容は何よりもの根拠だったでしょう。私たちは天からの声は聞けませんが、聖霊が心の中で囁く声は、聞けるのではないでしょうか。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成