2025年8月23日(土)
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聖書一日一章 マタイの福音書 20章
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私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。(14節)
キリストの、ぶどう園の労働者のたとえ話、十字架の予告、偉くなりたい者は仕える者になれとの教え、エリコの目の見えない人の癒しを記しています。
さて、ぶどう園の労働者のたとえ話において、主人は朝早く労働者を1日1デナリで雇いましたが、その後も、朝の9時ごろ、12時ごろ、3時ごろ、5時ごろに雇いました。日暮れになり、賃金をどの労働者にも1デナリずつ払ったところ、朝早く来た労働者たちが不満を言いました。朝早くから昼の暑さも辛抱して働いた自分たちが、少しだけ働いた連中と同じ賃金なのかと。それに対し、主人は、約束通り1デナリを払ったので、不当なことはない、ただ、自分のお金をみなに同じだけ分け与えたいのだと言ったというのです。
このたとえ話で、主人は神、労働者は人、賃金は救いを指していて、救いは行いによらず、神の恵みによることを教えているのでしょう。それはそうとして、私は今日、クリスチャンの働きと神からの報酬のことも教えていると思いました。この世では、報酬は働きによります。しかし、クリスチャンの神からの報酬は違います。神からの賜物と使命に沿って働き、必要に沿って報酬を受けるのです。そうすると、多く働いた人が少し働いた人より報酬が少ないということが起こります。不満はないのでしょうか。きっとないでしょう。神の報酬は豊かで、満たされるので、それ以上望まなくなるからです。
それはすばらしいことですが、神が限りなく豊かで、限りなく与えることができるから可能で、人間ができることではありません。このことを人間の力でしようとしたのが共産主義です。共産主義は「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」というモットーを掲げていますが、実は、この箇所や使徒の働きのクリスチャンたちの分かち合いの生活に触発されて生まれたものです。しかし、その試みは成功しませんでした。クリスチャンの団体や会社でも、こんなやり方はできません。しかし、多くのクリスチャンが経験しているように、神は、元気でよく働けるときには、その人の稼ぎで生活させられますが、働けなくなっても、不思議に困らないようにしてくださいます。
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