2025年9月6日(土)

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聖書一日一章    マルコの福音書 6章

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イエスは弟子たちを無理やり舟に乗り込ませられた。(45節)

キリストが郷里で拒否されたこと、十二弟子を宣教に遣わされたこと、ヘロデ王がバプテスマのヨハネの首をはねた事情、キリストが5千人を5つのパンと2匹の魚で満腹させられたこと、湖を歩かれたことを記しています。

さて、キリストが5千人の群衆に食事を配られた直後のことで、45節には、「イエスは弟子たちを無理やり舟に乗り込ませ、向こう岸のベツサイダに先に行かせて、その間に、ご自分は群衆を解散させておられた」とあります。この記述にあれっと思いました。というのは、キリストは群衆に教えられた上に、食事を配って、労されたのですから、その後は弟子たちが後始末をするのが普通です。それなのに、キリストは弟子たちを舟で先に行かせ、ご自身が後始末をなさるのです。そんなことまで先生がするのか、弟子たちに任せればよいのにと思います。しかし、30節と31節を見ると、その理由がわかります。5千人の群衆が集まる直前、弟子たちは派遣された宣教から帰って来たばかりでした。キリストは彼らの疲れを思い、そこは「出入りする人が多くて、食事をとる時間さえなかった」ので、「あなたたちだけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい」と言って、舟で寂しい所に連れていかれました。それなのに群衆がそこに先回りしていたのです。キリストは、群衆の求めを拒まず、教えられましたが、群衆へのサービスを終えるとすぐに、弟子たちを寂しい所に行かせられたのです。「無理やり舟に乗り込ませ」という表現は、弟子たちが「私たちが後始末をします。私たちだけ先に行くことはできません」と言ったことをほのめかしています。

また、34節には、キリストが先回りした群衆を拒まれなかったことについて、「大勢の群衆をご覧になった。彼らが羊飼いのいない羊の群れのようであったので、イエスは彼らを深くあわれみ、多くのことを教え始められた」とあります。拒まれなかったのは、憐みと思いやりのためでした。彼らにパンと魚を配られたのも同じ思いからでした。キリストはなんと人々を思いやり、その必要を満たすために仕えられる方でしょうか。キリストは私たちの主ですが、私たちを思いやり、私たちの必要を満たすために仕えてくださるのです。

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