2025年9月7日(日)

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聖書一日一章    マルコの福音書 7章

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人から出て来るもの、それが人を汚すのです。(20節)

パリサイ派の汚れときよめの考え方、その根拠となっている言い伝えに対し、キリストが間違いを指摘されたこと、悪霊につかれた娘の母親の願いを聞かれたこと、耳が聞こえず口がきけない人を癒されたことを記しています。

さて、キリストは20節以下で汚れについて言われます。「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさです。」パリサイ派は、自分たちは神の忠実なしもべだが、社会の悪によって汚されると考えていましたが、キリストは、すべての人の心が罪深く、そこから悪い思いや行いがどんどん出てくると教えられます。私たちは自分の心を見つめるときに、ほんとうにその通りだと思います。ですから、神に心の中に悪い思いがいっぱいあることを告白し、キリストの十字架による赦しを求め、聖霊のきよめを願うのです。

しかし、私たちがそのように思うのは、神を知っていて、神をすべての基準にしているからだと思いました。というのは、神を知らない人にとっては、考えが正しいかどうか、行いが良いかどうかの基準は、社会のルールと、自分にとって良いと思えるかどうかでしょう。そうすると、たとえば、淫らな行いや好色は、人間の自然な欲求だから、社会を乱さない限り、仕方がないということになるでしょう。たとえば、盗みや殺人も、刑法で罰せられるのでしてはならないが、盗みたいとか殺したいと心の中で思うのは、自然だということになるでしょう。たとえば、高慢も、人前で威張ると嫌われるので気をつけなければいけないが、心の中で自分の長所をあげて喜ぶのは、悪くはないということになるでしょう。そんなふうに、悪いと思わないなら、キリストを求めることも、悔い改めることもないでしょう。と思ったのですが、いやそうではない、だれの心にも良心があると思い直しました。良心は、その人自身の考えでもなく、社会のルールでもなく、神がその人に与えられた特別なものです。自分が良いと思っても、社会のルールに反しなくても、良心によって罪を知り、キリストを求めることもあるでしょう。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成