2025年9月11日(木)

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聖書一日一章    マルコの福音書 11章

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主がお入り用なのです。(3節)

キリストが、子ろばに乗ってエルサレムに入られたこと、神殿から商売人を追い出されたこと、いちじくの木が枯れたことに関して教えられたこと、教えの権威を問う質問に、神の権威によると答えられたことを記しています。

さて、キリストは、エルサレムで十字架につけられることを予知し、予告もしておられ、死を覚悟してエルサレムに入られました。そのとき、子ろばに乗って入るおつもりで、子ろばを調達するために2人の弟子を近くの村に遣わされました。そのとき、村に入ってすぐに目につくろばを引いて来るように、「なぜそんなことをするのか」と言われたら、「主がお入り用なのです。すぐに、またここにお返しします」と答えるように言われました。見知らぬ人が急に来て、自分の子ろばを引いて行こうとすれば、だれでも「何をするのか」と思います。キリストは、弟子たちがたまたまご自身を信頼している人に出会い、「主がお入り用なのです」と言えば、それだけで貸してくれると予知しておられ、弟子たちにそう指示されたのです。

その人は、見知らぬ二人が来て、自分のろばを引いて行こうとしているという不可解なことに出会っても、「主がお入り用なのです」という言葉だけで、納得しました。キリストを信じていて、キリストは神のためにも人のためにも一番良いことを知っておらる。そのキリストが必要とされるのなら、それは神のためにもすべての人のためにも良いと思ったからでしょう。私たちも同じ思いではないでしょうか。私たちは、なぜそんなことをするのかと思うことに出会うことがあります。また、自分がしていることで、なぜこんなことをしなければならないのかと思うことがあります。おかしなこと、良心に反すること、腑に落ちないことなら、やめるべきでしょう。しかし、祈っていると、よくわからないが、キリストが必要とされているように思えることがあります。そのときは、キリストが必要とされていると信じ、キリストにゆだねてすればよいでしょう。また、私たちは、何かを人から頼まれることがあります。キリストが必要とされていると確信できれば、引き受ければよいでしょうが、そうでないなら、断るべきです。後で後悔するからです。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成