2025年9月22日(月)

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聖書一日一章    ルカの福音書 6章

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富んでいるあなたがたは哀れです。(24節)

キリストが、弟子たちが安息日にしてはならないことをしたと批判したパリサイ人たちに反論されたこと、安息日に、彼らの批判を気にせず手の萎えた人を癒されたこと、十二弟子を選ばれたこと、幸いな人とはどんな人か、敵を愛せよ、さばいてはならない、岩の上に建てよなどの教えを記しています。

さて、24節では、「富んでいるあなたがたは哀れです。あなたがたは慰めをすでに受けているからです」と言われます。キリストは富んでいる人を哀れだと言われます。なぜでしょうか。悪いことや人々からの搾取によって富んだのなら、それはいつかさばきを受けなければならないことで、哀れでしょう。あるいは、富んでいて、遊び暮らしているのに、目の前で飢えている人に少しの助けの手も指し伸べないなら、それは神に嫌われることで、哀れでしょう。しかし、神を崇める人がよく働き、節約し、事業をし、貧しい人を助け、社会的責任を果たした上で、成功したのなら、それは幸いなことではないでしょうか。箴言31章で賞賛されている女性もそんな人です。

ここで、キリストが哀れだと言われるのは、富んでいること自体がどうかではなく、神の国の幸いと比べてのことでしょう。「あなたは慰めをすでに受けているからです」と言われますが、富んでいることは、物質的慰めを受けていることで、それが残念だというのです。神は公平で憐れみ深い方ですから、この世で幸いをまったく受けられない人には、神の国でその分多くの慰めを与えられるでしょうから、結果として、この世でその慰めをすでに受けている人は、その分少なくなるからです。神の国で受ける慰めの代わりに、物質的なものに過ぎない幸いをこの世で受けてしまうのは、もったいないということです。ですから、キリストはただ、神の国で受ける幸いや慰めがどれほどすばらしいか、それは富んでいることさえ哀れに思えるほどすばらしいと言っておられるのです。そういう意味で、20節で、「貧しい人たちは幸い」と言われます。私たちは富むことをあこがれたり、生きがいにしたりしないように気をつけなければなりません。私たちがあこがれるべきは、神の国での幸いと慰めです。

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