2025年9月27日(土)
_____________________________________________________________________________
聖書一日一章 ルカの福音書 11章
_____________________________________________________________________________
自分はその荷物に指一本触れようとはしない。(46節)
キリストの、祈りについての教え、悪霊を悪霊のかしらによって追い出しているとの非難に反論されたこと、救い主の証拠についての言葉、きよめの洗いに関してパリサイ派の形式主義を批判されたことを記しています。
さて、キリストは42節以下で、パリサイ派の人々に対して、きよめの洗いや十分の一の献げ物などの規定を守っているが、「正義と神への愛をおろそかにしている」と批判されました。彼らは、多くの細かい規定を守っているのに、一番大事なことをおろそかにしていたのです。それを聞いて、律法学者の一人が、「先生。そのようなことを言われるなら、私たちまで侮辱することになります」と言いました。聖書に「パリサイ人」と「律法学者」がよくいっしょに出てくるので、同じではないのかと思うのですが、厳密に言うと違います。「パリサイ人」は律法をきっちり守ろう、あるいは守らせようと、運動をしている人、律法学者はあくまで学者で、聖書を研究している人です。しかし、パリサイ派が守らせようとしている多くの細かい規定は、律法学者たちの聖書解釈から出てきたものでした。そんな律法学者たちにキリストは、46節で、「人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本触れようとはしない」と言われます。多くの規定を守るのは大変な重荷ですが、そんな重荷を負っている人々に、自分たちがその規定を決めておきながら、少しの同情も少しの手助けもしないというのです。人々はその重荷に苦しんでいるばかりか、その重荷に耐えられず、あるいは、神が重荷を負わせられたと思って反発し、信仰を捨てる人も出ていましたが、憂慮することもなかったのです。
しかし、キリストは、何よりも、重荷を負っている人々のことを考えておられました。重荷にうめく人々に同情し、人々の重荷を代わりに負ってあげたいと思っておられました。そのお気持ちから、当時のユダヤ人だけでなく、すべての時代のすべての国の人々のために、十字架で重荷を代わりに負い、受けるべき罰を代わりに受けてくださいました。同時に、私たちが果たさなければならないすべての義務も、代わりに果たしてくださったのです。
テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944 鷹取 裕成
