2025年10月1日(水)

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聖書一日一章    ルカの福音書 15章

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私のものは全部おまえのものだ。(31節)

キリストの、いなくなった羊のたとえ話、なくした銀貨のたとえ話、放蕩息子のたとえ話を記しています。

さて、放蕩息子が帰って来たとき、父は大喜びで迎え、子牛を屠らせて祝宴を持ちましたが、それを知った兄息子は、弟を迎え入れたことを怒り、家に入ろうとしませんでした。父がなだめたところ、彼が言いました。「長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありませんでした。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子のために肥えた子牛を屠られるとは。」彼の言うことはもっともです。不公平だと思うのはよくわかります。そういう不平に対し、父は、「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ」と言いました。これが兄息子への答えになっているかどうかは難しいところです。兄息子にとって父といっしょにいることがそんなに幸せかと言うと、たぶんそうではないでしょう。父の財産が全部彼のものだというのも、弟息子がすでに自分の分をもらっていることを考えると、当然受ける分にすぎないと言えます。

しかし、父の答えの主旨は、不公平ではないという弁解ではないのではないでしょうか。「おまえはいつも私と一緒にいる」という言葉は、「私と一緒にいてほしい」、「私の片腕だと思っていたが、そうであってほしい」、「私の側にいてほしい」という気持ちを表していると思います。そうすると、「おまえの弟は、死んでいたのに生き返ったのだから、喜び祝うのは当然ではないか」という言葉も、死んだと思っていた弟息子が生きていたことをいっしょに喜んでほしいという気持ちの表現になります。兄息子は、不公平かどうかよりも、父が弟ばかりかまうことを問題にしていたのでしょう。それは嫉妬と言えるでしょう。しかし、父は彼に自分の側にいてほしいと思っていたのです。それは、全幅の信頼であり、愛とも言えるのではないでしょうか。愛の表現にはいろいろな形があります。愛されていないと思っていても、気づいていないだけかもしれません。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成