2025年10月5日(日)

_____________________________________________________________________________

聖書一日一章    ルカの福音書 19章

_____________________________________________________________________________

この都のために泣いて、言われた。(41節)

ここでは、取税人ザアカイの回心、主人がしもべたちに1ミナずつ与えて商売させ、その働きを評価したというたとえ話、キリストが子ろばに乗ってエルサレムに入られたこと、神殿の商売人を追い出されたことを記しています。

エルサレムに入る直前、町を眺めて、「もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら」と言って、エルサレムに迫りくる惨劇を預言されました。「敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。」エルサレムは敵に攻められ、滅ぼされ、荒れ果てるというのです。歴史は、紀元70年にローマ軍の攻撃によってこの預言通りになったことを教えます。

さて、「平和に向かう道を知っていたら」と残念がられるように、そんな目にあうのは、エルサレムの人々が「平和に向かう道」を知らなかったからです。その「平和に向かう道」とは何でしょうか。44節で「神の訪れの時を、おまえが知らなかったからだ」と言われますので、「神の訪れの時を知ること」、つまりさばきの時を知ることです。神は人間のすべての営みを見ておられ、適当な時期にさばきを下され、また世の終わりに最後のさばきを下されます。そのことを知っていれば、悪いことをしてはいないかと恐れて反省しますし、悪いことに気づけば、赦しを求めるでしょう。彼らは、旧約聖書で何度も何度も教えられているのですから、知っていたはずですが、信じていなかったのでしょう。ペテロの手紙第二3章にあるように、「彼の来臨の約束はどこにあるのか。すべてが創造のはじめからのままではないか」と思っていたのでしょう。それは高ぶりというものです。高ぶりは惨劇を招きます。

そんなエルサレムのために、キリストは泣かれました。その涙から、彼らを何とか救いたいと思われ、まず、ご自身が十字架で死ぬことによって、神に赦される道を用意し、その上で、聖霊によって人々の目を開き、悔い改めを起こし、赦しと救いを与えていかれるのです。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成