2025年10月11日(土)

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聖書一日一章    ヨハネの福音書 1章

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世はこの方を知らなかった。(10節)

キリストが天地創造の前からおられたこと、人となってこの世に住まれたこと、ペテロらがキリストのところに来て救い主と信じたことを記しています。

さて、11節では、「この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった」と言います。これはキリストの生涯を総括しています。この世界は、2節で言うように、神とキリストが造られたので、キリストにとってはご自分のものです。ですから、キリストがこの世界でお生まれになったのは、ご自分のところに来られたにほかなりません。それなのに、この世界は受け入れず、十字架につけて殺してしまいました。しかし、救い主として受け入れた人々は、その死が身代わりの死とみなされ、神の子どもとなる特権を与えられました。私たちも幸いなその一人です。

一方、直前の10節では、「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった」と言います。一見、11節と同じことを言っているように見えますが、そうではありません。この節は、まだ、キリストがこの世界にお生まれになる前のことです。キリストは天地創造の前からおられ、世界を造られたのに、「世はこの方を知らなかった」と言って、人々がキリストを知らなかったことを責めているのです。キリストがまだ生まれておられないのですから、知らないのは普通ではないかと思いますが、知っていて当然、知らなかったのは無礼だと言うのです。果たして人間は、キリストがお生まれになる前からキリストを知ることができたのでしょうか。おそらく、ヨハネが言うのは、パウロがローマ人への手紙1章20節で言っていることではないかと思います。「神の目に見えない性質、すなわち永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。」人間が高ぶりによって目が曇っていなければ、神の存在と神の性質がはっきりと見えるはずだというのです。それを知るならば、神に救いを求めるはずだし、求めるならば、神は、キリストを啓示されるはずです。

テレフォンのお分かち TEL 072-255-0944   鷹取 裕成