2025年10月13日(月)

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聖書一日一章    ヨハネの福音書 3章

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人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。

(27節)

キリストが訪ねて来たユダヤ人の議員ニコデモの質問に答えられたこと、バプテスマのヨハネの、キリストについての見解を記しています。

さて、バプテスマのヨハネの所にある人たちが来て、26節のように言いました。「先生。ヨルダンの川向こうで先生と一緒にいて、先生が証されたあの方が、なんと、バプテスマを授けておられます。そして、皆があの方のほうに行っています。」その人たちは、キリストが近くでバプテスマを授けておられると聞いて、どう思うか聞きに来たのです。先生が広めたバプテスマなのに、イエスという人が勝手に行っている。しかも、その人のところに多くの人が集まり、先生のところに来ていた人たちまでそこに行っている。その人はもともと先生と「一緒に」いた人で、先生が人々に推薦してあげた人なのに、親切を仇で返されたのではないかと。

しかし、バプテスマのヨハネは言いました。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。」人が持つものはすべて神が与えられるものです。食べる物や着る物や住む所から、お金や才能や地位や家族まで、すべて神が与えられるものです。神が与えられる以上のものを望んでも無駄です。宣教の働きについても、神がみ心に従って、使命を与え、賜物を与え、成果を与えられます。バプテスマのヨハネは、キリストのために道を整える使命、つまり人々がキリストの救いを求めるように、その人の罪を責め、悲しませる使命を与えられました。その働きは大いに用いられましたが、キリストが世に出るまでで、今や彼は働きを終えなければなりません。

私たちは人が持っているものを見て、あこがれ、欲しがり、うらやましく思います。時には、ねたんだり、何とか手に入れようと、必死になることもあります。しかし、人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができないのです。神はみ心において、必要だと判断されたもの以外は与えられないからです。祈っても与えられないものは自分に不必要なものです。

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