2025年10月15日(水)
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聖書一日一章 ヨハネの福音書 5章
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子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。(21節)
エルサレムのベテスダの池には回廊があり、多くの病人や障がい者が横になっていましたが、キリストはそこに来て、そこに一番長くいると思われる、38年間もずっと病気の人に目を留められました。キリストが「良くなりたいか」と尋ねられると、「水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りて行きます」と答えました。み使いが水をかき回すことがあって、そのとき真っ先に入る者はどんな病気も癒されるという言い伝えがあったからです。彼の言葉には、入れてくれる人がいないので、病気の軽い人が先に入って癒されてしまうという悔しさがにじんでいます。しかし、キリストが尋ねられたのは「良くなりたいか」で、その良くなることこそ彼が求めていることなのですが、水に入れない悔しさと入りたい気持ちで、そこに思い至りませんでした。手段がいつの間にか目的になっていたのです。キリストは彼を癒し、その目的をかなえられました。
このように、何かを求めると、それを得るための手段が必要になり、その手段がいつの間にか目的になるということがよくあります。たとえば、試験は何かの知識や技術を得るための手段ですが、試験で良い点を取ることが目的になることがあります。たとえば、人の役に立とうと始めた事業も、続けるためにはある程度の利益が必要ですが、利益が目的になることもあります。
その人がほんとうに求めていたのは、体が良くなることでしたが、もっと深く考えると、それも最終の目的ではありません。というのは、人がほんとうに幸せを感じるのは、体ではなく、心であり魂だからです。体が健全でも悩み苦しんでいる人がいるし、死にたいと思っている人もいます。かたや、病気でも、見舞いに来る人をいつも励ましている人もいます。そのように、心が幸せであることは、体が健全であるよりも大事です。もっとも、体が健全であれば、心が幸せを感じやすいので、それに越したことはありませんが、それが最終の目的でないことを確認しましょう。やはり、最終の目的は、心あるいは魂が幸せであること、それも永遠に幸せであることです。キリストを信じることによって、まさにそれを与えられていることを感謝しました。
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